意地を張るのは劣等感が強いから!強がることを辞めて愛されるには

  • 2021年1月21日
  • 幸せ
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本当は弱音を吐いて甘えたいんだけど、つい意地を張って強がってしまうことありますよね。
時には意地を張ることも強がることもしていいのですが、人生を通して強がってしまうと心は満たされていかないし孤独な気持ちも感じるかもしれません。

この記事ではなぜ意地を張ってしまうのか、強がらずに周りの助けを借りながら安心して生きるにはどうしたらいいのかについて解説していきます。
ぜひ、周りの人に助けてもらいながら心に安堵感を広げていってもらえたらと思います。

1.意地を張ると孤独感が湧いてくる

まず、意地を張らずに周りに頼っていったらいいのではないかという提案をしていこうと思います。
なぜ、意地を張らない方がいいのではないかというと、意地を張っていると人生がなかなかうまく回らないからです。

意地を張って強がっていても目的を達成できることはあるかもしれません。
やろうと思っていた事業がうまくいく、結婚して子供ができるなど、自分が幸せだと思っていたカタチを手にできることもあると思います。

ただ、その時に思い描いていた幸福感を味わえないと思います。
目的が達成できて「自分はやれるんだ」という気持ちになるかもしれないし、幸せのカタチを手に入れて「これが幸せなんだ」と感じることはあるかもしれません。
しかし、幸せを感じているかというとそうとは限らないんですよね。

意地を張り強がるということは、相手を自分に近づけないということです。
周りに人がいるかどうかは関係なく、自分に相手を近づけさせないというスタンスが「一人感」や「孤独感」を生んでいきます。

勝手に一人になると満たされた気持ちを感じないし、一人で生きている感覚ばかり大きくなってしまいます。
この孤独感は周りに人を集めたり、尊敬される人になったり尊敬される結果を出すことで解消されるのではなく、意地を張ることを辞めることによって孤独感や一人で生きている感がなくなり、自然と受け入れられている感覚になっていきます。
ぜひ、意地を張ることを辞めて周りに受け入れられている感覚を感じながら生きてもらえたらと思います。

2.意地を張って強がる理由

では、意地を張らずに周りに頼ったら幸せになっていきますが、なぜ我々はつい意地を張ってしまうのでしょうか!?
ここでは、人が意地を張って強がる理由を説明していきます。

意地を張るのはなぜかと考えると色々な理由が出てきます。

  • 相手に負けたくない、バカにされたくない
  • 自分を良く見せたい、認められたい
  • 自己顕示欲
  • 弱みを見せたくない、借りを作りたくない
  • 助けを借りた時に拒否されると傷つく

ただ、これらは大きく二つの心理にまとめることができます。

2-1.劣等感がある

一つ目の心理が劣等感です。
「人は劣等感があると閉じる(自分を開示しなくなる)」という言葉がありますが、強い劣等感を持っていることによって自分のダメなところを他人に開示できなくなります。

人に頼るというのは、このダメなところを露呈することに直結するので、「一人でできます」「私は大丈夫です」という顔をついしてしまいます。
平気なフリをしていたら、自分の劣等感が刺激されて落ち込むことがないからです。

負けたくない、バカにされたくない、良く見せたい、認められたいなど、多くはこの劣等感で説明が付きます。

2-2.拗ねている

もう一つ、強がり意地を張る心理として「拗ね」というものがあります。

長い間悩んでいる人の多くは、この「拗ね」という状態にあります。
昔、親から愛されたくて愛されなかった、助けを借りた時に無碍にされた。
そんな経験を通して傷つき、「どうせ愛してくれないならあなたには期待しません」「どうせ助けてくれないんだから私は一人で生きていきます」と、「どうせ」という言葉を伴った拗ねを発動するのです。

本当は愛して欲しいし、助けて欲しい。
しかし、「それはどうせ叶わないから」と最初からあきらめ、さも元々求めていないような態度を取るのです。

3.意地を張るのを辞める方法

では、上記の意地を張る理由に対応する形でどうしたら意地を張って強がるのを辞められるかについて話をしていきます。

3-1.劣等感がある

まず劣等感についてです。
劣等感を解消していく方法は「自分を許してモノサシを捨てる」ということになりますが、劣等感の仕組みを知っておいた方が辞めやすくなるので、まず劣等感の仕組みについて説明し、その後自分を許していくという話をしていきます。

3-1-1.劣等感の仕組み

劣等感はなぜ生まれるのかですが、劣等感は自分や他人の存在を測るモノサシを持っているから生まれます。
「こういう人は人として優れている」「人はこうあるべき」というモノサシを持ち、自分がその目盛りが高い時には優越感を持ち、目盛りが低い時には劣等感を持ちます。
多くの人は劣等感を味わいたくないので、なるべくこの目盛りを上げておこうと頑張ります。
また、人に頼るということは他人よりこの目盛りが低いことが露呈してしまうと感じ劣等感がちらつくため、意地を張っているという側面があります。

そして、この劣等感を生むモノサシは大抵が小さい頃の家庭環境で生まれます。
「何でこんなこともできないの!?」「〇〇さん家の子はもっと勉強できるのに」などの親の言葉によって、善悪正誤というモノサシ(価値観)が作られるのです。
一度このモノサシができるとモノサシの存在自体を疑うことなく、モノサシの目盛りばかりにフォーカスして生きていくことになります。

ただ、このモノサシは人それぞれ指針があり、人によって、学歴、仕事の出来、知識、コミュニケーション能力、人気、お金、知名度、フォロワー数など多岐に渡ります。
逆に、モノサシが一つではなく種類が多いということは、実質モノサシがないのと同じです。

目の前に石があった時にその石に価値があるか。
モノサシとして、「大きいものに価値がある」という一つのモノサシしかこの世の中になかったら、それは大きさで判断できるけど、考古学者は歴史的な視点で、商人はお金の視点で、建築家は加工のしやすさで、漬物を作る人はその重さで、水切りをして遊ぶ子供は平べったさで。
判断の軸が多いということは、つまり、それに価値があるかはよく分からない、ということです。
その中で、自分は一つの判断軸に躍起になっているということです。

また、モノサシで何を測るかというと多くの人は自分の価値を測ります。
人は命の次に自己価値を大事にするので、自己価値を上げることや下げないことに全力を尽くします。

ただ、この世界を楽に幸せに生きたいと思ったら、人の価値の捉え方をこうしておいたらいいと思います。
「みんな一緒で、上がりもしないし下がりもしない」

そう、今日生まれた赤ちゃんも明日亡くなるおじいちゃんも、バリバリに稼いでいるエリートも引きこもりの人も人の価値なんて変わらないんですよね。
何ができるようになっても価値は上がらないし、何をしなくても価値は下がらない。
その上でみんな必死に役に立つ人になることで自分の価値を上げようとしているという感じです。

3-1-2.劣等感を解消する

だいたい、劣等感の仕組みについてイメージしてもらえたでしょうか。
要は、自分の頭の中や身の回りの人の価値観の中だけで繰り広げられ、そこに苦心しているというのが劣等感です。
(あらゆる悩みについて実はそうですが)

多くの人がモノサシを意識的、または無意識的に分かっていて目盛りを上げることで劣等感を解消しようとしますが、目盛りを上げても上はいるし、上げたら上げたで今度は目盛りが下がるのが怖くなり、モノサシに左右されている状況に変わりはありません。

このモノサシから離れる方法はモノサシ自体を捨ててしまう>ということです。
具体的には、モノサシの目盛りが低い自分を許していきます。</span

  • 仕事がモノサシになっている場合は仕事ができなくてもいい
  • コミュニケーション能力がモノサシの場合はコミュニケーション能力が低くていい
  • SNSでキラキラしているかがモノサシの場合は人に羨ましがられなくていい

という風に、目盛りが低い自分を自分の中で許していきます。
これは決して卑屈になったり拗ねたりすることではなく、そんなモノサシごときで自分の存在が図れるわけないと開き直るということです。

そうやって目盛りの低い自分を許していこうという心のベースができたら、次に目盛りを上げる行動や目盛りを下げないためにやっている行動を辞めるということです。

  • 仕事なら頼まれた依頼を断ってみる
  • コミュニケーション能力なら空気を読まない発言をしてみる
  • 映えならばSNSへの投稿自体を辞めてみる

目盛りを上げるための行動や目盛りを下げないための行動は、そのモノサシを強固にする方向に進みます。
逆に、目盛りを下げる行動や目盛りを上げない行動は、そのモノサシをあいまいにする方向に進みます。

許しとモノサシをあいまいにするアクションを取ることで、何で今までそんなくだらないモノサシに躍起になっていたのか疑問に思うようになっていきます。
そんな感覚が、劣等感はすでに解消されている状態です。
物の見え方も変わって楽に心地よい気持ちになっている自分に気づいてもらえます。

3-2.拗ねている

次に「拗ねを辞める」についてです。
「拗ね」とは前述の通り「本当はこう思っているけど、どうせ叶わないからもういいよ」という少しひねた感じです。
なので、拗ねをやめるというのは逆に「素直になっていく」ということです。

「本当はこう思っている」をそのまま言う。
「こうして欲しい」「これが悲しかった」という気持ちに素直になるということです。

「本当は拗ねたい」「素直になんてなりたくない」「だって今までこんなに傷ついてきたんだから」
そんな自分を分かってくれて、今まで傷ついてきた以上の優しさをくれる人が現れたら、周りがそう扱ってくれたら、拗ねを辞められそうな気がするんですが、現実的にそんな人は現れません。
仮に現れていたとしても自分が拗ねているせいで、その存在に気づきません。

悔しいけれど、その拗ねは自分で辞めていくしかないんですよね。
拗ねて自分の素直な気持ちを封印するということは、自分に優しくできていないということです。
拗ねて周りの優しさを求めながら、自分に優しくないという状況になっています。

そんな拗ねを辞めて、素直な気持ちを認めて自分に優しくしていくということです。

ぜひ、素直になっていってみてください。
そして、そのために自分の「本音」を見つけていってください。

本音とは、建前とは逆という意味の本音ではなく、以下のことを言います。

  • 怒りの下にある悲しさ、寂しさ、不安、恐怖
  • 〇〇と言われた気がしたという解釈

ここを自分が分かってあげて、その見つけた本音に従っていくということです。

また、拗ねが辞められないという話はよくもらうのですが、自分で始めた拗ねなので自分の意思で辞めることができます。
ただ、そこには「昔大事にしてくれなかったのに」という悔しさが付きまとうので、この悔しさを無きものにしていいと割り切るか、過去の未消化の感情を解消するかしてもらうと、拗ねが辞めやすくなります。

過去の未消化の感情を解消する方法は、子供を愛せない親かも!子供を愛せない深層心理と子供への愛情を育むにはにまとめてあるので参考にしてください。

4.意地を張ることを辞めるとは

ここまで、意地を張る根本の理由とその解消法をお伝えしてきました。
劣等感も拗ねも自分の人生を苦しく大変にする大きな要素ですので、ぜひ解消してしまってくださいね。

劣等感も拗ねを解消することもそうですし、意地を張ることを辞めることもそうなのですが、要は「降参する」ということです。
本当は過去にしこりもあるし、そのせいで今まで頑張ってきたし、今カッコよく生きたいし認められたい。
そんな思いを持っていると、人に頼れないしどこか人を寄せ付けない人になってしまうんですよね。

そこで意識して欲しいのが「降参する」ということです。
過去の苦しさを誰かに分かってもらうことを降参するし、今までの頑張りを無駄にしていいと降参する、カッコよく生きることも降参する、という感じです。
それは卑屈に生きるということではなく、「本当の自分を受け入れる」ことになります。

ぜひ、不要なプライドは捨てて降参してしまってください。
その降参の先に、みんなに受け入れられ愛されながら生きる世界があります。
受け入れられながら愛されながらこの世界を存分に楽しんでいきましょう。

5.まとめ

今回は、「意地を張る」「強がる」についてまとめました。
大きく劣等感と拗ねのために意地を張っているところが大きいので、まず劣等感と拗ねを解消してしまってくださいね!

劣等感と拗ねを解消するだけで世界が変わったようにこの世界が穏やかで心地の良いものになるし、意地を張ることを辞めたら周りから受け入れられ、愛されていることを強く実感してもらえます。

ぜひ、本文の内容を実践していってくださいね。

意地を張るのを辞めるとは本当の自分を受け入れていくという「自己受容」に繋がってきます。
自分を大切にする具体的な3つの行動!自己受容の幸福感が広がるは自己受容についてまとめているので、もしさらに深く学びたい方は参考にしてみてください。