自己中な性格を変える程大きくなる不足感と批判の正体

  • 2017年10月14日
  • 2020年5月17日
  • 人間関係
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自分のことしか考えてないと言われて嫌われた。
自分勝手なところを何とかしなければ。
なぜ自分は人に興味を持てないのだろうか。

「自己中な自分をなんとかしたい」

そう考えて自己中による批判を回避したり、自分の性格を変えようとしたり、
人と接する時の立ち居振る舞いを見直したりする方もいるのではないでしょうか。

実を言うと、私もそうでした。
自分の自己中心的なところが嫌で、それを出してはいけないと、
変に萎縮して縮こまって人と接していました。

ただ、そうやって人と接すると、人といる時間が疲れるし、
人間関係を100%では楽しめない。
そして、いつも縮こまっているから自分を認めることができず自信を持てませんでした。

そんな経験も踏まえつつ、
「自己中」というトピックをどう捉え、人間関係をどうしていったら、
楽に楽しく、気持ちが良い自分で人と付き合っていけるのかについて解説していきます。

1.批判する・批判されるの構造

まず、「自己中」という話に入る前に、
「批判する」「批判される」という構造について、お話したいと思います。

これは、自己中に限らず、あらゆるトピックやモラハラなんかについてもそうなのですが、
批判する人と批判される人はある共通点を持っています。
それは、「一つの正しさ」を信じているということです。

「ある正しさ」を暗黙的に共有した上で、
その正しさを守っている人(批判する側)とその正しさを守れない人(批判される側)に役割が分担されます。

そして、「ある正しさ」を守れない人は、その正しさを守れないことに罪悪感や後ろめたさを持っており、
その後ろめたさによって、意識してか意識せずにか「こんな自分を罰したい」という気持ちを感じているのです。

つまり、批判とは、
「正しさ」を守っている人による「間違った人を罰したい」気持ちと
「正しさ」を守れない人による「そんな自分を罰して欲しい」気持ちによって成り立っているということです。
言葉を変えると、「罰したい・罰されたい」というプレイをお互い楽しんでいるということです。

罰されたい人なんていないだろう、という声も聞こえてきそうですが、
もし、本当に罰されたくないのなら、とうに批判する人から距離を取っています。
また、人は自分の後ろめたさがあるときは、なぜかその痛みを味わおうとするものです。

これが、批判の構造です。
これは、今回のテーマでもある自己中についても当てはまります。

「自己中はいけないこと」という「正しさ」を共通認識として持った上で、
他人を優先できる人による攻撃と、自己中である自分は攻撃されて当然だというプレイを繰り返しています。

2.「自己中はダメだ」という批判から抜け出す

では、この批判の構造からどう抜けたらいいのか、
その答えは「自己中である自分が他人を優先できるようになったらいい」ということではありません。
それは、ただ、この批判の構造にどっぷり浸かっているだけで抜け出してはいないからです。

この批判の構造から抜け出すには、
「自己中でもいい」と自分を許して、自己中な自分をさっさと認めてしまうということです。
また、物理的・精神的に自分を責めて来る人とは距離をとってしまうことです。

上記の通り、批判には以下の2つが必要になってきます。

  1. 一つの「正しさ」を共有すること
  2. 批判される側に「申し訳ないから罰が欲しい」という気持ちがあること(自覚していない場合もある)

だから、この「正しさ」を捨てて、
それに則っていない自分でもよい、何も申し訳ないことなんてないということが分かってしまえば、
この批判プレイ、責めたい責められたいプレイから抜け出すことができます。

例えば、「牛を食べるとは何事だ」とものすごい怒られたとして、
「牛はおいしく食べるでしょ!!」と思っている私たちにとっては、
このお叱りは何の力も持たず、「この人、大丈夫か!?」になるわけです。

これが、インドの人で牛を食べてはいけないと思いながら、
こっそり食べてしまった人にとっては、この怒りの言葉というのは大きな力を持つことになります。

3.幸せな方に合わせよう

ここで、人の批判について、少し角度を変えてみましょう。

人を批判するということは上記の通り、「正しさ」を守っているということです。
では、なぜ「正しさ」を守る人が守らない人を批判するのか。
それは、守らない人を目の当たりにするのが怖いからであり、羨ましいからです。

元々、その「正しさ」というのはどこから来たかというと、
ほとんどは親のしつけで、学校や社会の常識・そこでの経験によって学んでいくこともあります。

今に至る過程の中で、その「正しさ」を破ったことで、
親や学校の先生に怒られ、友達に嫌われたのはそのせいだと思い込んできました。

つまり、その「正しさ」を破るということは、
怒られる怖さや嫌われる怖さが感情として蘇るということです。

だから、目の前でその「正しさ」を破る人を見ると、
「怒られるー、怖い!!」「そんなことしたらみんなに嫌われるー、怖い」となり、
その怖さを感じないために、目の前の相手を変えようとするのです。

羨ましいに関しては、
本心では守りたくないルールを自分は守っているが、
目の前のあいつは守っていない、そんなのずるい、羨ましいとつながっていきます。

要は、怖さによってそのルールを嫌々守っていて、
無自覚かもしれませんが、何も考えず子どものように自由に振る舞えることが羨ましいと感じているのです。

そうであるならば、批判する方も批判される方もそのルールをやめたほうが楽じゃないか、と。
自分と相手を許していって方が、お互い幸せじゃないでしょうか。

苦しい方や自由を制限する方に合わせていかなくていいのです。
自分から先に、その土俵から降りる。

土俵の下で自由に楽しくやって、
そんな姿を相手が見て「自分もこの土俵にいるのやめようかな」と相手も降りる。
そんな自由な世界で幸せに生きたらいいのだと思います。

だから、相手に合わせて苦しい思いをしながら我慢するのではなく、
「自由で幸せな方にあなたも合わせたらいいのだよ」と心の中で思いながら、
先に、「正しさ」を手放し自由になってしまったらいいのです。

4.自己中の裏にある嫌われるという前提

ここまで読んで、「そうだ」と、「自己中に自由にやったらいいのだ」と腑に落ちた方は、
この先を読まなくても大丈夫です。

ここからは、「そうは言っても自己中になるのは抵抗がある」という場合、
その抵抗を明らかにしながら、その抵抗を越えて行くという話をしていきます。

ただ、最後に一番大事になるのは勇気です。
抵抗を外していくと言っても、勇気を出さなければならないタイミングは来ます。
ぜひ、その勇気を出すことを意識しながら、読みすすめてみてください。

自己中になる抵抗として、周りの人に認められない、自己中な自分が嫌いなどいくつか思いつきますが、
その中で一番大きなものは「嫌われたくないから」なのではないでしょうか。

嫌われたくないから嫌われない自分になる。

しかし、嫌われたくないからと本来の自分を隠して歪めていくと、
いつしか自分が自分のことを嫌いになります。
他人には嫌われないかもしれませんが、自分から嫌われてしまいます。

自分の一番近くにいて一番一緒の時間を過ごしている自分から嫌われる。
それはとても悲しいことで、自分の人生に疑問さえを持つかもしれません。

それに、嫌われない自分でいようと頑張ってみても、
実は、どこかでやっぱり嫌われることはあるし、すべての人から好かれている人はいない。

少し振り返って欲しいのですが、
自己中がバレないように隠してきたのに嫌われたという経験はありませんか?
気を使われているようで嫌だと思われたり仲良くなれなかったり。

実は、自己中であろうがなかろうが、嫌われるときは嫌われるし好かれるときは好かれる。
もっと言うと、理想の自分になろうが、嫌われるときは嫌われるし好かれるときは好かれる。
その割合ってあまり変わりません。

自己中を直して嫌われる、自己中を直さず自分を肯定しながら嫌われる。
嫌われないためにと頑張ろうとしているかもしれませんが、そんな二択を選んでいるだけです。

そして、自己中を直して好かれる、自己中を直さずありのままの自分で好かれる。
そんな二択でもあったりします。
きっと後者の方が幸せで楽しいと感じるのではないでしょうか。

そう、あとはここからは勇気です。
「話としてはわかった」
そうなったら、あとは行動してみて腑に落としていく。

嫌われてもいいや、と損をする覚悟をしながら、
ぜひ、自己中を直さず、自分を表現してみてください。

きっとそんな自分でも許されていることに気づいてもらえると思います。
また、自分が嫌って捨ててきた部分を認められた自分を誇りに感じます。
ぜひ、勇気を出すことを頑張ってみてください。

5.この世の誰もが自分のため

最後に、この世の誰もが自分のために動いているという話をします。

誰かのため、相手を喜ばせたいから、世の中をよくするために。
自分ではなく他人のことを考えているように思うかもしれませんが、
それも、回り回って自分のためなのです。

  • 誰かの役にたてて嬉しい
  • 誰かの喜ぶ顔を見ていると幸せな気持ちになる
  • 世の中に影響を与えられて充実感を得られる
  • 相手のためと行動していたら批判されなくてすむ
  • 人のためと動ける自分は嫌いにならなくてすむ

後半2つは幸せな考え方ではありませんが、
いずれにしろ、回り回って「自分のため」なのです。
言葉を変えると、すべての人が「自分のため」で「自己中」と言えるかもしれません。

そして、それが悪いことだと言いたいのではなく、
「自分のため」「自己中」でいいではないですか。

嬉しく幸せで充実した気持ちを味わいたいから、相手に喜んで欲しい。
それは素敵なことだと思います。

「相手のために」
それは、決して人に振りかざすものではありません。
「相手のために何かをすると、自分が幸せを感じらるからオススメだよ」というだけのこと。

それを履き違えて、「相手のために」「自己中ではいけない」と義務にしてしまうと、
そこにある喜びや幸せを感じることができないのです。

「自分を満たすために」という考え、大いに結構じゃないですか。
自己中になって自分を優先してもいい、
誰かの喜ぶ顔をみたいから、相手に何かをしてもいい。

それが自由で幸せです。
ぜひ、言葉に縛られるのではなく、そのままの自分を可愛がり、
自分のために自分と他人を幸せにしてもらえたらと思います。

6.まとめ

今回は、批判の構造を説明し、その批判から抜け出す考え方を解説しました。
人は自由に自分の感じるように生きたら良くて、
どんなルールも強制されるものでも、振りかざされるものでもありません。

もし、「自己中」を含め色々なルールに縛られている場合は、
「いち抜けた」と「ルールを守るべき」という世界から抜けてみてください。

私も自分の自己中心的なところが嫌で長い間、性格を変えようと頑張ってきましたが、
あるときに自分の思うことを言って、自分の思う通りに行動してみました。
すると、周りにいた仲間からは、早くそのキャラを出せば良かったのに、と言って面白がってくれました。

今となっては自己中な自分を大いに楽しんでいます。
それでも周りにいてくれる人に感謝だし、自然と相手に何かしたいなという気持ちになっています。
もちろん、自分のやりたい範囲で自分の出来る範囲でです。
(ちなみに、このやりたい範囲・出来る範囲というのはものすごく大事です)

そうやって、自分を認めながら一緒に楽しめる仲間がいることは幸せだなと感じます。

ぜひ、自己中な自分を認めて、
「自由で生きやすい素敵な世界だな」「自分は元々これでよかった」「人はこんなに優しいかったのだ」
という体験してみてください。勇気を出して。

それでは、最後までお読みいただきありがとうございました。

自分のルールを外していく具体的な方法は、
生きづらさの正体と生きづらい毎日が自由になる方法を参考にしてくださいね。